文章を理解するための精読の効用(後編)

book_fusen_yoko前編は「要約」とはなにか、について説明いたしました。そして前回の最後に読解力がある人とない人の違いは、会話や文章に対してこの正確な要約がよくできているかどうか、というところで終えています。今回はその説明をさせていただきます。

study_book_neochi_man多くの方が要約という作業をしなくても何となく文章の本旨を理解しますので、学校教育でされる正確な要約作業に対して「無駄な作業」と感じることが、この「何となく理解」が読解力の低下の一因となっているのではないでしょうか。主語・述語・目的語・補語といったそれぞれの語の役割の整理、形式段落、意味段落の整理を疎かにすると、要旨をぼんやり捉えることはできても構文に対しての理解までには至らないため、数学者である新井紀子氏の東ロボプロジェクトで出題された

「幕府は、1639年、ポルトガル人を追放し、大名には沿岸の警備を命じた」
「1639年、ポルトガル人は追放され、幕府は大名から沿岸の警備を命じられた」

という文章が同じ意味かどうかを問う同義文判定の問題で、約半数の中学生が不正解になるような事態が起きてくるのです。自己啓発の一環として本を読むことを推奨され、より多くの書を読めば知識は増えますし、その自助努力は称賛できるものです。hanashiai_wakaranai_manですが知識を得るに留まる読書では、結局新井紀子氏の言う「知識に比べ幼稚な知性」というAIの限界と同じ壁に突き当たる可能性が高いのです。今、あるいはこれから必要なのは精読だと思われます。人対人、人が機械からのアウトプットを読み取るコミュニケーションは成立しても、現状機械が人を理解するためにコミュニケーションをとることはできません。そしてコミュニケーションの破綻は連携の破綻を意味します。「読解」とは文章に対してだけのものではありません。相手の話の意味が理解できない。意図まで思いが及ばない。そのようなことにならぬよう「精読」が重要となってくるのです。